心と胃の癒し旅


 

   胃かいようを患ってしまった。
胃カメラの先につけた器具で患部をクリップするという治療が行わ れた。
二度も胃カメラを飲まされたが、なんとか入院はまぬがれた。
食生活を注意され、どっさり薬を渡された。
アルコールとストレスが原因というのが多いらしい。
「ビールが飲めないなんて、ああストレスがたまりそう!」などと ぼやいていたら僕の入院を覚悟していたカミさんが「旅にでも行っ て気分転換していらっしゃいよ」とやさしいことを言う。
   耳を疑いながらもカミさんの気が変わらないうちに家を飛びだし 駅に行き、翌朝の東北新幹線で盛岡までのキップとレンタカーの手 配をしてくる。
   夜、リュックに着替えや地図を詰め込む。
「日本の秘湯」という本も詰め込む。
   心も胃も軽くなっていく感じだが、くすりと保険証も詰め込む。

 



 翌朝、快晴の旅行日和。東京発7時40分のやまびこ3号に乗る。
いつもならキヨスクで缶ビールロング缶とさきいか、かきピーを買 い鼻息荒く乗り込むところなのに、今朝はウーロン茶とサンドイッ チを買いすごすごと乗り込む。
これでは旅行というより遠距離通勤者の気分だ。

 


   今回の旅は無計画で飛び出したので、せめて今夜の宿の選択でも と例の秘湯の宿が載っている本をとりだし検討をはじめる。
車窓から北国の山々が見え始めると、だんだん心もうきうき、胃 もかるく(気にしてるんだなあ)嬉しさが込み上げてくる。

 


 盛岡に10時10分につき、JRのレンタカーを借りていざ出発。
一人旅は誰に気を遣うこともなく気ままに行動できる。しかも空は 晴れ渡り、ニッサンレパードは新車ときている。
「さあ、どごさいぐべが、たぐぼぐの渋民村さ、いってみるべー」 僕は東北が大好きで、知り合いも多く、もうさっそく東北弁モー ドになっている。
 4号線を北に向かい40分で啄木記念館に着く。
 才能に恵まれながら26歳で波乱に満ちた生涯を閉じた石川啄木 の直筆のノートや手紙、代用教員時代のオルガンなどが解りやすく 展示されている。
   天才は19歳で結婚、20歳で処女詩集を出版している。
   繊細で気紛れで自信家で貧乏。
   直筆の手紙は借金の申込のものが多く、だんだん気が滅入ってき たので外に出る。
   歌碑が建っている。

 

「やはらかに 柳あをめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 」良い歌である。たしか彼は東海地方の磯でも、カニと泣きあった りしていたなあ。
   車に戻り、しばし啄木の歌を思い出してみるのだが、正確にはい えず状況だけが浮かぶ。 
   (えーと、おっかさんを久しぶりにおんぶしたら、あんまり軽い んでよー、おらびっくらこいただよー)
   (友達さ、皆えらぐ見えてよお、おら寂しいんだ。花さ買ってき たからよう、かあちゃん慰めてくれや)
(働いても働いてもびんぼうだあ。こりゃー手相がいぐねーだは)
「啄木さんふざけてすみません」

 


  今日の宿は新幹線の中で「日本の秘湯」の中から選んでおいた八 幡平松尾村の松川温泉峡雲荘といい、盛岡から車で一時間半の山の 中にある。
  ガソリンスタンドから予約の電話を入れると、そこからだとまだ 30分はかかるので気をつけてくるようにとのこと。空いててよか った。
   松川温泉は標高800m、岩手山の北西に位置し、昔は湯治場だ った処とか。
   車の窓をあけ、山の空気をいっぱい吸いながらのドライブだ。
やがて、ブナとカラマツ林のなかの峡雲荘に到着。午後4時早め のチェク イン。
   外観がペンション風だが、中は木造で手入れも良く清潔感にあふ れていて、若い主の意気込みが感じられた。
   まずカミさんに電話を入れ今日の宿を知らせる。
心も胃も喜んでいることも知らせる。

 


   さっそく浴衣に着替えて風呂へ、もちろん露天風呂の方へ行く。
広い岩風呂には誰も入っていない。嬉しくなり体操なんかしてお 湯に入る。
  ここの温泉はクリームソーダをかきまぜた色というか、牛乳にア ロエを混ぜた色というか、不透明でそれほどイオウ臭くなく、まさ に温泉らしいお湯である。
  広い岩風呂では自分のベストポジションを探すものだ。入り口に 遠く眺めの良い場所で、よりかかるのにちょうど手ごろな岩がある といったところか。
   さあ、自分の場所探しに出かけよう。
   ところがここの岩風呂の場合底がごつごつしていておまけに不透 明ときているのでつまずきそうで、お湯の中をさっさと歩けない。
おかげでチンパンジー歩きみたいに両手でお湯の底を探りながら、 こわごわと移動する。
やはり有りました有りました。こしかけ石、背もたれ岩完備、景 観抜群のその場所は、岩風呂作り職人が密かに仕組んだ最高の場所 とみた。

 

   石組みの謎を解いた僕は古谷一行さん扮する金田一探偵の気分で 温泉を満喫。
   谷を渡る風が心地良い。
   もうすぐ西の山に消える太陽がブナの木のこずえに下りて、ちら ちらとまぶしい。
   そろそろ、上がるとしよう。
   古谷一行さんの気分の僕は、またチンパンジー歩きをしながらの ろのろとお湯から上がっていった。

 


  夕食は部屋に用意されたが一人旅ではむしろ侘しいものである。
まして今回は「禁酒と大食を慎み、胃にやさしいものを食すこと」 なのだ。
「お飲み物は何になさいます?」といわれるのが辛い。
「ぼ、ぼ、ぼく今胃を.....ちょっと......」と腹を指差すのが辛い。
料理が豪華であるのが辛い。
おまけにテレビは横浜ベイスターズが負けてるのが辛い。
「もう!おしっこして寝ようっと」

 


  朝5時に起きて露天風呂へ。誰もいない。
   天気は上々、小鳥が元気にさえずり自然はもうすっかり朝の顔で 迎えてくれる。
   湯にひたりながら、さわやかな空気をおもいきり吸い込み、今日 も良い日でありますようにと自然の神々に祈り、湯から上がる。
  部屋の窓から巨大な円筒形の建造物が見える。これが有名な出力 約2万kWを誇る世界有数の松川地熱発電所なのだそうだ。
   直径45mの煙突のおばけのような冷却塔からは、もうもうと蒸 気が立ち上っている。
   ひなびた温泉場に似合わない、なんとなく怪しげな建物だ。
せっかくだから近くで見てみようと朝飯前の散歩がてら宿をでる。
   浴衣に下駄ばきでブナ林を下って5分、渓流の向こうの山あいに 姿を現わした。
   その不思議な建造物は思ったより巨大で、人影はなく静かだ。
   太い煙突から湧き出す白い水蒸気が空へと吸い込まれていく。
   初めてみる不安な景色だ。
   まるでSFの世界に紛れこんだような錯覚をおぼえる。
   「地底怪獣ジネラ現われる!」.......顔はゴジラで尾はクジラ、背 中はラクダで手はモグラという怪獣ネジラはキャラクターとしてい かがなものでしょう。

 


   早起きしたため8時に宿を発つ。もちろん「日本の秘湯」めぐり のスタンプを宿の主人に押して貰う。
   目標まで、まだあと8個だ。(10個たまると1回ただで温泉に 泊れるのだ)がんばらなくっちゃー!
   松川温泉さようなら?ジネラも元気でいてねー。

 

   松川温泉から八幡平山頂をむすぶルートは樹海ラインという有料 道路である。
   雄大な岩手山の姿を望みながらアオモリトドマツ、ブナ、ホウな どの原生林の中を走る。
   神秘的な美しさに、おもわず車を止めてカメラのファインダーを 覗くが、パノラマモードでも入り切れない素晴しい眺めの連続だ。
   案内によると八幡平は岩手、秋田の両県にまたがり、約40の火 山が集まる火山台地で樹海に囲まれた湿原と湖と高山植物がおりな す一大パノラマ地帯で、冬には樹氷が覆う別天地、だそうだ。
   山頂付近に藤七温泉というのがあり、ここも「日本の秘湯」に掲 載されている温泉だがなにせまだ朝のうちである。
   通り抜けて山頂を左に曲がり秋田県にはいる。

 


   その山頂を曲がった途端、突然霧に襲われる。
   目をこらすが10メートル先が見えない。超ノロノロ運転でハン ドルを握る手に汗がにじむ。
   どこまで続くのかまったく解らないので不安な気持ちになる。 (あんなに晴れていたのにいったいどうなってるんだ.....ったく人
   生と同じで何が起こるか解ったもんじゃない!)僕の将来はだ いじょぶだろうか......。
   かなり山を下り大きなカーブを曲がった途端、霧は消えた。
   ああ良かった!これで僕の老後も安心だ。
   秋田県側にも温泉はたくさん有る。
   後生掛温泉、大沼温泉、トロロ温泉、赤川温泉、玉川温泉など   名湯がずらりだが、残念素通りして一路田沢湖に向かう。

 

 
 乳頭温泉は田沢湖の北東20km、乳頭山の渓谷沿いに点在する 六湯からなっていて、その中の鶴の湯温泉に行くことにする。
なにしろ秘湯といえば必ず紹介される秘湯中の秘湯らしい。
国道を左におれ山道を30分、風雪に耐えてどっしりと建ってい る黒い建物群が鶴の湯温泉であった。
屋根は茅葺きで、黒沢明監督のモノクロームの時代劇を見ている ような渋い景色だ。
 部屋の作りも、幾種類もある風呂も、古い湯治場風で時間が逆も どりしたような錯覚をおぼえる。
 まず透明なお湯の内湯にはいる。
二人のおじさんが上がるところで「さあ、ビール飲みいくべー」 と人の気も知らないで、汗をふきふき出ていった。

 


 露天風呂は乳白色の岩風呂だったので、またチンパンジー歩き しながらポジショニング。
4?5人の男達が静かにお湯につかっている。
広くて気持ちまで休まる良い湯だ。
なぜか岩風呂のあちこちにハエたたきが置いてある。
こんなイオウ臭いところにハエなんかいるわけないし、何に使う のだろうか。
   サウナ発祥の地フィンランドでは汗のふきでた肌を木の小枝でピ シャピシャ叩くという入浴習慣があるそうだが、日本でもこの地方 では古くから温泉に浸かりながらハエたたきで肌を叩いて入浴する 風習があるのだろうか?
   突然、同浴の男達がハエたたきを振り回しながら騒ぎ出した。
   僕の目の前にも何かが飛び回っている。
   肩に止ったものを見ると「ひえー!」大きなアブである。
   子供の頃、泳いでいて、よくさされたものだ。
   男達は奇声をあげながら、前も隠さず阿波踊のような格好で両手 を頭の上で振りながら慌てて出ていった。
   僕も同じく奇声をあげながら、阿波踊スタイルで露天風呂をあと にした。

 


  岩手には石川啄木の他に宮沢賢治がいる。
  彼は詩人、作家、地質学者、農業指導者、宗教家で、彼の作品に ふれるとき魂がふるえる。
   それは彼の無私な生き方、哲学に思いをはせるからだ。
「そうだ、花巻に行こう。賢治の故郷に行って、心も胃も清らかに なろう!」
  しかし花巻は少し遠いので、まずは賢治の縁のある小岩井農場に 行くことにする。
   田沢湖方面より国道46号線を盛岡に向かい、途中の雫石町を左 に折れる。
   岩手山の南に広がる日本最大の民間牧場で、乳業工場では1日約 20トンの牛乳、紙パック1万6千本に相当する処理能力を持って いるそうだが、牧場経営に関心はないので観光農場の方へ行くこと にする。
   入場料500円を払い遊園地風なゲートをくぐる。
   一面に広がる牧草の中を牛や羊ややぎさんがのどかに遊んでいて 空には白い雲が浮かんでいる。
   思わず「おーい雲よ、ばかにのんきそうじゃないか、イワテ山の 方までゆくんか?」.......)と、まあ、こんなのんびりした牧場だと 思ったらおおまちがい。
   大勢の観光客でごったがえしており、食堂、売店、アイスクリー ム屋、バーベキュウ、アーチェリー、乗馬、トロ馬車などが「さー さーお金使ってちょうだいな」と行く手を阻む。
   BGMのヨーデルまでもうるさく感じる。
   放しがいのひつじさんに挨拶だけしてすぐにゲートを出る。

 


 ゲートの右のほうにSL蒸気機関車が見える。
   D51蒸気機関車にコンパートメント式客車両をつなげてホテル にしてしまったとか。
   森をバックに静かにたたずんでいる姿は、これぞ銀河鉄道だ。
素泊り4千円だそうだ。むろん食堂車も連結している。
「うーん、面白そうだなー泊まってみようかなあ」

 

   しかし、若い頃夜汽車がにがてだったことを思い出す。しかも温 泉はないし........。
   おじさんはメルヘンよりも体をいたわるのであった。
駐車場のおばさんに近くの温泉のことを聞くと、親切に教えてく れた。
   おばさんお勧めの鴬宿温泉めざし、いざ出発。

 

 
   湖や山なみに見とれて運転していたためか、どうやら鴬宿温泉を 通りこしてしまったらしい。
   人家もない山の中にだんだん入っていく。
   時計を見るともう夕方の5時だ。
   沢内村なんて知らないところだ。
   「これは戻ったほうがいいな」と思った途端、大きく立派な看板 が目にはいる。
「銀河高原ホテル!」
  宮沢賢治を連想させられる看板に誘われ横道にはいる。
  な、な、なんと白樺林の中に本格派のホテル(ペンション、モー テルのたぐいではない)がこつぜんとあらわれた。
「こんな山ん中になんで立派なホテルがあるんだ?まさかタヌキ かキツネに化かされてんじゃないだろうな」
   賢治の童話の「注文の多い料理店」が頭をかすめる。
恐る恐るフロントで一夜の宿を乞うと、どうやらガラガラらしく 愛想よく迎えてくれる。
   この沢内村の銀河高原ホテルは偶然にも天然温泉付だった。
   そして隣接の建物では、な、なんと地ビールを作っていたのだ。
.......オレ聞いて無いよ!とほほ......。

 


  案内されたのはツインのベッドの洋間と8畳の和室という広い部< 屋だった。
    「一人で泊まるのもったいないなー、5人、いや8人は大丈夫だ」 などとホテルの効率を心配する。
   窓いっぱいに見える深い森と山々と夕空が一枚の絵のようだ。
   ホテルの案内を見ると「トナカイとのソリ遊びや木工房手作り体験 そば打ち体験」など家族ずれをターゲットにしているようだ。
   なるほど、子供とかあちゃんが林の中で遊んでいるあいだ、とうち ゃんはビアレストランで地ビール飲んでりゃいいのか、「こりゃー、 良いかもしんない!」
   まずは温泉で疲れを取ろう。
   露天風呂、内湯、サウナが有り、さすがホテル、清潔感のある行き 届いた設備だ。
   なにせ秘湯ときたら、上がり湯なし、シャワーなし、シャンプーな し、鏡なし、ドライヤーなし、資生堂アウスレーゼなしが当たり前だ がここは全部有る、などと勝手なことを思う。
ひげまで剃って久しぶりにさっぱりした。

 


   夕食にレストランに行く。
 みんな楽しそうに食事は始まっていた。
 客は15テーブル、60人ぐらいか。やはり家族ずれが多い。
 親孝行と家族サービスを一挙に済まそうという魂胆の三世代一行が わりかし多い。
   野郎二人というのもけっこういる。
   部長と女事務員などというカップルを探したがいなかった。
   なんと一人は僕だけで、肩身がせまい。 
   ボーイがやってきて、メニューを置いていく。
   なにせ地ビール製造元のビアレストランなので胃にやさしい、茶粥 にうめぼしなどというメニューはない。
   子供意外は皆ジョッキでビールを飲んでいる。
もう赤い顔をしたむかいのおじさんがスペアリブをかじりながら、
ビールを口に流しこんでいる。
「あー、たまんねーなー」
   ここで僕がもしもビールを飲まなかったら「あいつ、ここへ一人で なにしにきたんだ」と世間は疑惑の目を向けることだろう。
   ボーイが戻ってきて、当然のごとくビールの銘柄の説明をしはじめ る。つらい!
   「あのう、一番小さいグラス、おちょこでビールいただけません
か」、、、、、これがあったんです。
   試飲用の小さなグラスに3種類のビールがつがれてボーイが運ん できた。
「これで味見をしてから、あとはお好きなのをぞんぶんにどうぞ」
だって。人の気も知らないで!
  出来たてのビールは実にうまい。
  あーあ、これで世間から白い目で見られないですむだろう。
  僕のストレス君は「待ってたんだよう」と歓迎しているようだし、
胃のほうだって「しょうがないねえ、ちょっとだけですよ」と黙認。
   どうやらストレスと胃はツーカーで気が合うらしい。
 10日ぶりのアルコールはちょっぴり苦く、すぐに酔がまわった。

 


  夜半、目がさめる。禁酒を破ったことが辛い。心が痛む。
  寝静まったホテルの野天風呂に行くが誰もいない。
  良い湯が落ち込んだ心をほぐしてくれるようだ。
  お!お!何と見上げれば満天の星空。さすが銀河高原。
  北斗七星と白鳥座がやっと見つかり嬉しい。 
   もっとも夏の星座はこれしか知らない。
   ホテルに星座早見盤があればいいのにと思う。
   若い頃、好きだった「スター、ダスト」をくちずさむ。
   けっこう覚えているもんだ。
   涙腺がゆるんで来たようだ。
   自己嫌悪とセンチになったおじさんの心と体を、温泉と星空がゆ っくりと癒してくれるようであった。

                                              おわり